Ein Heft
36 読

36 読

  • 井伏鱒二編『日本の名随筆36 読』
  • 発行年月日:1985年10月25日
  • 発行元:作品社

市島春樹「読書八境」 #

  • どういう環境で読書するか、「読書の味」が変わる8つの境遇を示したもの。なるほどなあと思うものもあるけど、「幽囚」「陣営」はなかなかイメージできないところ。

辰野隆「書狼書豚」 #

  • 珍本、稀覯書、豪華本の収集・所有について、著者、山田珠樹、鈴木信太郎のエピソード。おもしろいのだが、ちょっと付いていけないというか、自分にはこの手の欲求はあまりないなあ。でも、たぶん相当に深い「沼」があるのだろうと想像。

坪内逍遙「十歳以前に読んだ本」 #

  • 十歳以前は「維新の真最中」にまず驚く(いや、不思議ではないのだけど)。そのあとに挙げられるのが、四書、百人一首、草双紙、謡曲。なんというか、子どもの読むものが現在とはまったく違う。というか、子ども向けの本というジャンルがまだそれほど明確ではなかったのかも。「今」(この随筆が書かれた時点)の子どもたちは自分よりずっと幸福とみているのは興味深い。

村上信彦「立川文庫から『日本少年』へ」 #

  • 戦前の子どもたちが楽しんだ立川文庫と少年雑誌のこと。
  • 当時、立川文庫が青少年たちに広く読まれたのは、実は新刊本としてではなく、貸本屋での独特のやり方の交換(お金を少しだけ付けて自分が持っている本を他の本と交換できた)によるとのこと。そんな方法があったのかと驚き。
  • もう1つ、少年雑誌が「真に子供の王国」だったのは明治でも昭和でもなく、大正で、またその代表は『日本少年』だったとのこと。大正時代の社会背景がうかがえる。このあたりのことを詳しく調査した研究はあるのかな。

野間宏「自分を爆破する書物」 #

  • 10代後半からの「自分を爆破して粉微塵にしてしまう」書物との出合いのこと。自分の場合はなんだったろう、あまり思い出せない。
  • そういう書物との出合いによって、逆に身動きできなくなることや自分を確立するのが難しくなることもふれられている。ただ、そのように強く入り込むことそれ自体の社会的文化的背景も、考える意味がある気もする。

安岡章太郎「戦争と読書」 #

  • 戦時中の独特の環境のもとでの読書が特異なものとなることが語られている。新刊書がない、検閲、戦時色一色の雑誌、警察の「学生狩り」、思想弾圧など。後半は谷崎潤一郎と永井荷風の比較のようなおもむきもある。終わりでふれられているアラン『マルス ——裁かれた戦争』は読んでみたい。

永井荷風「虫干」 #

  • 1911(明治44)年の随筆。夏の日の虫干で座敷の畳に出された蔵書から「自分の眼を驚かし喜ばしたもの」を取り上げるという趣向。具体的には明治初年の頃に出版された『東京新繁盛記』(たぶんこれかな→東京新繁昌記とは - コトバンク)と古河黙阿弥の著作。日本化した漢文体の考察、ボードレール等の西洋のデカダンスとの比較にまで及んでいて、射程が広くてすごいなと思う。
  • 現在とは相当に異なる江戸末期から明治にかけての文化と芸術、それも高尚なものだけではなく世俗的なものも含めて、知りたくなってくる。
  • 結びも気が利いているというか、冒頭に対応していて、スッと終わるところが、なんとなく心地よく感じる。

鏑木清方「小本」 #

  • 「小本(こほん)」とは「美濃半紙を四つ折りにした大きさのもので作られた草双紙や人情本の類」とのこと(小本とは - コトバンクより)。この随筆では、為永春水の『梅暦』(梅暦 (上) - 岩波書店)が取り上げられ、そのなかの江戸の描写と、鏑木清方自身が歩く東京のまちとが対比されている。
  • 短い文章だけど、江戸から東京への変化、人びとの日常生活が浮かび上がってくるような。
  • 文体のリズムが独特で、なんだか歌を唄うような感じで読める。細かな表現がよくわからなくても、引き込まれる。

森銑三「私の読書生活」 #

  • 「雑駁な書物読み」と自称する筆者の、ある書物を手にするまでの顛末が語られている。その紆余曲折がおもしろい。
  • その書物は、明治末に雑誌連載され大正期に出版された、海賀変哲『落語の落』。どんな本なんだろうと検索してみたら、なんと国立国会図書館デジタルコレクションで公開されていた。海賀変哲にアクセスするとブラウザ上で読むことができる。びっくり。
  • また、1997年には平凡社の東洋文庫に収録されているようだ。ただし、小出昌洋編の「新編」となっているから、そのままの内容ではないのだろう。新編 落語の落 1 - 平凡社新編 落語の落 2 - 平凡社。どちらも現在品切中だが、オンデマンド版も出されている。東洋文庫は図書館に所蔵されていそうだから、そのうちみてみようかな。
  • ただ、これだけ情報化が進んでいると、逆に、この随筆で描かれている本との出合いがたいへん趣のあるものに見えてくる。

戸板康二「忘れ得ぬ断章」 #

開高健「夜、開く」 #

  • 2ページにも満たないエッセイ。でも、これはすごい。なんだろう、空間的な広さと高さ、時間的な過去と現在、個人と文明、いずれも包含するような感じ。うまく言えない。
  • ラストが効いていて、読んでいるこちらも誘われるようだ。

高橋睦郎「ある絵本」 #

  • 戦時中の幼児のときにお気に入りだった「ある絵本」が主題なのだが、とても奥深く感じる。
  • 1つには、絵本における絵と文字の関係についての考察。ごく短い指摘だが、かなり興味深い。絵が主で、文字が従なのではなく、絵が実は現実世界に対するイラストレーションとしての始原的文字であり、この絵に対する第2のイラストレーションとして文字があるとのこと。とくに幼い子どもにとっては、この通りなのかもしれない。
  • もう1つ、言及されている「ある絵本」に惹かれる。その物語と描写には、作者(高橋睦郎さん)の当時のありようが重なって浮かび上がってくるような。この絵本を実際に読んでみたいのだが、作者もタイトルも記されていない。

佐藤春夫「訳詩集『月下の一群』 その著者堀口大学に与ふ」 #

小沼丹「チエホフの本」 #

  • 大学生くらいまでのチェーホフの本とのかかわりが書かれている。英訳からの重訳があったようだ。おわりのところのチェーホフ像が印象深い。

林達夫「小説読者論——古いノートから」 #

  • 小説読者のいくつかのタイプに関するアルベール・ティボーデの議論を下敷きにしている。最初に、無頓着に小説を楽しむ一般大衆といっていいような「レクトゥール」と、文学を本質的な目的と捉え追求する「リズール」とが区別され、そのうえで後者がさらに3つのタイプに分けられている。
  • ティボーデの論旨から少し離れたところで展開されている、小説家と読者ないし時代・社会との関係についての議論がおもしろい。ただ、レクトゥールとリズールとの区別にもかかわりそうだが、文学の純粋性ないし本質性をそれほど簡単には前提できない気もしないではない。それを前提にすることそれ自体の時代性・社会性も考えられるかも。
  • 同じことは、後の方でふれられている「通俗小説」と「芸術小説」の区別にも当てはまるかもしれない。現時点でこの区別は成り立つのかな。いや、成り立つとして、でも、ここで言われている「芸術小説」はどこまで可能なのだろう。言い換えるならこれまでになかったものの発明・発見、「前衛」(?)はどのようにありうるのか。それほど簡単には言えない気もする。

河上徹太郎「座右の書」 #

  • 2ページにも満たない短い随筆。「座右の名」に挙げられるのが、ちょっと予想外でおもしろい。
  • 実はけっこう意味深かも。

丸谷才一「ゴシップ集としての自伝」 #

  • 最初、自伝という文学形式の「具合の悪さ」=書きにくさが説明されているけど、メインは最近、読んだ2冊の自伝の紹介かな。
  • 自伝の自己顕示性に落ち着かなさがあって、それを回避するためにゴシップ集のような体裁をとるということ。
  • でも、考えてみると、現在は誰もがネット上で日々、自伝を書いているような気もする。その点では、自己顕示であることへの感じ方もかなり変化しているかもしれない。
  • 逆に、ゴシップに対しては、個人情報なり何なりで敏感になっているかも(そうでもないかな?)。

# 井伏鱒二

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